写真を撮る理由 – 感覚的な思考回路を持つアーティストからすると、とんだ愚問でしょうが、理系しかもwhy whyうるさいアメリカ人たちに囲まれた私からすると、どうしても自分の行動の理由づけをしてしまいたくなります。そこで今日は考えてみた、どうして写真を撮りたくなるのか。いつシャッターを切りたくなるのか。

 

 

感動を残さなきゃ、という自分に対しての記録の義務感に答えたくなるとき

 

旅行でも、日常でも、思わず目を奪われる瞬間って、気をつけて数えてみると、けっこうあるものです。それはアラスカの夜空一面に広がる壮大なオーロラかもしれないし、奈良公園でなぜか蹴られた鹿の場合もあるし、オフィス近くの中華料理屋の今日のおすすめランチの看板に坦々麺の文字を見つけたときかもしれません。「あっ」と思う日常はめまぐるしい勢いで、思い返す暇もないほどの忙しい毎日の中で過ぎ去っていくんだけど、「これ、10年後とかに思い出したい」と、とっさにカメラに手が伸びるとき、その思いは予想以上にうまく写真に残るもので、そのプロセスが楽しい。

 

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どうして思ったように、その感動が写真に反映されないんだろう、と追及したくなるとき

 

そういった日常でふと出会う感動を残そうとシャッターを切ったのに、あとでその写真を見てみると「あれ?」と首をかしげることも最初は多いですよね。私はいまだにそんなんばっかりです(恥)。

 

真っ青な海や空に感動して写真を撮ったのに、思いのほか白っぽく写っていたり。ものすごいサクサクの衣が芸術的に均等についたトンカツに感動したのに、あとで写真を見てみるとそれがあまりおいしそうに写っていないとか。壮大な花火をなんとか遠くに住む家族に見せたくて撮影したのに、実際はぶれぶれでなにがなんだか分からないこともありました。

 

その「なぜ」を解決するプロセスも、学校の授業で解けない数学の問題を解いている感覚で楽しい。ザ・理系。

 

子供の成長が神秘的すぎて、その神秘と奇跡を大人になった子供たちに伝える方法を模索し始めたとき

 

私が大きなカメラを手にしたきっかけがこれでした。まだ長女を妊娠中だったころ、日々大きくなるお腹を見て、「ひとりの人間が別の人間の体内に入ってるって、奇跡じゃね?」と、ぞくぞくしていました。毎日(つわりを除いては)その感動で幸せいっぱいでしたが、そんな神秘的なプロセスを経て、そのあとも細胞分裂をくりかえして大きくなる言葉にできない奇跡を、どうやって後世に残すか考え始めたのが、一眼レフを手にした最初だったっけ。

 

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言葉を話し始めた瞬間、公園のブランコで高らかなおたけびをあげる瞬間、発表会でどまじめな顔で脇役を演じる瞬間、そんなちっぽけなひとつひとつの瞬間なのに涙腺がゆるむ私。奇跡的に幸せな私とその家族の思い出は、今後のために残さなければならないと思いました。将来hardship(苦難)がふりかかったときに、少しでも役にたつかもしれませんから。

 

なんて、かっこいいことを書きましたが、実際には写真を撮る気持ちになれないことのほうが多い日常です。いろいろな育児本にいろいろな育児法が書いてあるけれど、私にとって一番大切なのはどうやって心の余裕を持つか、なんだと最近になって気づきました。子供に対して感情的にならないようにしよう、子供としっかり向かい合おう、なんて気持ちがいくら強くても、それだけの精神的余裕がなければ、結局そんな気持ちはつぶされてしまうものだから。

 

だからこそ、常に手の届くところに、さっと手にしたくなるような、カメラに手を伸ばすのは、私にとっての「心の余裕を持ちましょう」のリマインダー。かしゃっというシャッター音が、Crazy Busy(狂ったように忙しい)なスケジュールの合間の、心のリセット音なのです。

 

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